サーモンのおすし

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分かりやすい!国会参考人質疑、弁護士伊藤真氏発言全文文字起こししてみました

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こちらの質疑での発言がすごく今の問題点やこれからどうするべきなのかということを分かりやすくまとめてくださっています。

 

文章だけではなく、そのスピーチの仕方も私たちにとってものすごく参考になるので動画で見てみてください。

 

それではその全文です。(誤字脱字あれば随時修正致します)

 

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伊藤真でございます。今回の安保法案が、今の日本の安全保障にとって適切か、必要か、そうした議論はとても重要だと思います。しかし、そもそも憲法上許されているのか否か、この議論が未だ充分になされているとは思えません。どんな安全保障政策であろうが、外交政策であろうが、憲法の枠の中で実施すること。これが立憲主義の本質的要請であります。憲法があってこその国家であり、権力の行使である。憲法に語る者にたいして、往々に、「軍事の現場を知らない」「憲法論は観念的で」という風によく批判されます。

 

しかし、不完全な人間が、実行する現場、そして、現実、これを人間の叡智であるところの、いわば観念の所産であるところの憲法によってコントロールする。まさにそれが人類の叡智であり、立憲主義であります。

 

憲法論がある意味で観念的で抽象的なのは当然なことであります。現場の勢いや感情に任せて人間が過ちを犯してしまう。それをいかに冷静に知性と理性で縛りをかけるか、事前にコントロールするか、それがまさに憲法論の本質と考えています。

 

憲法を無視して、今回のよな立法を進めることは立憲民主主義国家としては到底有り得ないことです。国民の理解が得られないまま採血を強行して法律を成立させることなどあってはならない、そう考えます。

 

本案は国民主権民主主義、そして憲法9条、憲法前文の平和主義、ひいては立憲主義に反するものでありますから、直ちに廃案すべきと考えます。

 

国防や安全保障は、国民にとって極めて重要な政策課題であります。ですからその決定事項に従う為には、それを決定する国会に民主的正当性、これが無ければなりません。憲法はその冒頭で、

 

『日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し』

 

と規定しております。なぜ正当な選挙が必要なのか。それはそこでも多数決の結果に賛成できない国民であっても、この権力の行使を受けざるを得ません。それに納得出来る手続きが保障されなければならないからです。

 

仮に結論に反対であったとしても、主権者国民から選出された代表者が、充分に審議、討論して、その問題点を明確にした上で成立した法律なので、仮に結論にたいして反対の立場であったとしてもとりあえずは従う、ということであります。国会における法律制定という、国家権力の行使を制度化する為には、どうしても2つの事が必要であります。

 

ひとつは、『正当に選挙された代表者であること。』もうひとつ、『充分な審議によって問題点を明確にしたこと。』残念ながら共に満たされていないと考えます。

 

現在の国会は衆議院については2011年、2013年、参議院については2012年、2014年とそれぞれ、二度も、毎年最高裁判所によって”違憲状態”と指摘された選挙によって選ばれた議員によって構成されております。言わば国民の少数の代表でしかありません。これは異常であり、違憲状態国会とも言えるものです。まあこの瞬間全てのみなさんを敵に回してしまったような気がするんですが。

 

そこで、安保補正、国民の生活の根幹に関わるような法律を制定しようというわけですから、憲法判断いおいて最高裁を尊重する、というのであれば、まずは最高裁が指摘するように議員定数、これを憲法の投票活動の平等の要請に合わせて正す。民衆が機能するようしてからこうした議論をするのが筋、ではないかと考えます。

 

このように、代表民主制としても正当性を各国会でもある場合、主権者国民の声を、直接聞くことが不可欠と考えます。連日の国会前の抗議行動、全国の反対集会、デモなどを始め、各種の世論調査の結果で、国民がこの法政に反対であることは周知の事実となっております。

 

自分達の生活が根底から覆されるのではないかと、危機感を抱いている生活者であり、また主権者であり、憲法制定権者の声であります。国会議員にとっては自分達を選出し、権力行使の権限を授権してくれた主人の声。実際に声を上げている人々の背後に、思いを共有する人々がどれほどいるであろうか。

 

民を尊重する政治家ならば、想像力を発揮すべきだと考えます。”違憲状態”という異常な国会であるからこそ、国民の声に謙虚に耳を傾けなければならない、そうでなければ民主国家とは到底言えないでしょう。

 

もちろん参議院で審議を継続しているにも関わらず、60日ルールを使われてしまうようなことは民主制の議会制民主主義の否定であり、あってはならないことだと考えます。民主主義では多数決によって物事が決定します。

 

しかし少数意見、反対意見を充分に聞き、審議を尽くした、と言える審議討論の過程こそが多数決の正当性を担保するものであります。充分に審議を尽くすことで問題点を明確にし、それを国民に示すことで次の選挙の際の国民の判断材料を提供するわけであります。

 

充分な議論も尽くさずに次の選挙の審判を受ければ良い、などと言う考えは、民主主義を全く理解していないものと考えます。国民は、国会で充分に議論が成されたからこそ、そこでの考えが自分と違っていたとしても一旦は納得し、従います。

 

この国民の「納得感」こそが民主主義を支える重要な要素であります。国民と納得と支持に支えられて自衛隊は活動します。国民の納得と支持が不十分なままで他国民の殺傷行為を国の名前で行う、もしくは自衛官個人の判断で行う、ということになると、それは国民にとっても、また現場の自衛官にとっても、「悲劇」としか言いようがありません。

 

では、「不安を感じている国民も理解できるような十分な審議が尽くされた」と言えるでしょうか。各種世論調査によっても国民の理解が進んではいないと指摘されております。何事にもメリット・デメリットがあるはずですが、政府の方からこの法案についてはメリットの説明しか無いように思えます

 

デメリットをどのように克服するかの議論が全くなされていないと感じるからこそ、国民は不安になり、反対するのではないでしょうか。例えば政府は「戦争に巻き込まれることは無い」という。また、戦争法という呼び方を批判されます。

 

しかし、例えば集団的自衛権を考えた場合、たとえ要件を解釈で厳格に限定したとしても、その効果は、日本が武力攻撃されていない段階で、日本から先に相手国に武力攻撃することを認めるものです。敵国兵士の殺傷を伴い、日本が攻撃の標的となるでありましょう。これは、日常用語では「これは戦争」と言います。

 

こうして戦争に巻き込まれるというデメリットを超えるメリットがある、ということを何ら説明されていません。「徴兵制は、憲法18条に反するから全く有り得無い。」と言います。憲法18条で、意に反する苦役に服させられないとありますが、しかしこれは公共の福祉で制限出来ると解釈されているものです。ということは、必要性・合理性が生じたならば、徴兵制も可能、ということを意味します。

 

サイバー対策の為のIT技術者、輸送医療、法務など、必要な人材の確保に窮した時でも、限定的な徴兵制すらあり得ないと言い切れるのでしょうか。集団的自衛権の解釈でやってみせたように、これまでの政府解釈を「状況が変化した」ということである日突然変更してしまうという可能性を否定出来ません。

 

抑止力を高めることが、国民の命と、幸せな暮らしを守ると言います。しかし、軍事的抑止力を高めることで、より緊張が高まる可能性があるはずなのですが、その説明はありません。他にも立法事実があるのか、自衛隊と国民のリスクはどうなるのか、後方支援がなぜ他国の武力行使と一体化しないのか、海外で自己保存以外の武力行使が許されるのか、根拠はどこにあるのか、他国軍の武器・防御が許される法的根拠は、自衛官が海外で民間人を誤射してしまった際の処理等、他にも不明な点が山積みであります。多くの国民の疑問を残したまま、強引に採血を強行してはなりません。憲法は国民が自らの意思で、国家に一定の権限を与えて国家権力を制御する為の道具であります。

 

憲法はその前文で、『日本国民は、この憲法を確定した。』と言っています。何の為か。『わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し』とあります。つまり二度と政府に戦争させない、その為にこの憲法を作ったわけです。

 

そしてその具体的に、明確にするために憲法9条を置きました。憲法は初めから、政府に戦争をする権限など与えていません。そこでの「戦争」は武力の行使、武力の威嚇を含む概念であります。すなわち憲法は、政府の裁量で武力行使、つまり戦争を始めることを許してはいないのです。そこで憲法の外にある国家固有の自由権というものによって、「自国が武力攻撃を受けた時に限り」の個別的自衛権だけを認めることにしてきました。

 

この個別的自衛権は、日本への武力攻撃が行われた時に行使されますから、これは客観的に判断できる基準であります。しかし、集団的自衛権は他国への武力攻撃を契機とし、政府の判断で行使されるものであり、限定的な要件を立てたとしてもその判断を政府の総合的な判断に委ねてしまう以上、政府に戦争開始の判断を与えることに他なりません。これは日本が武力攻撃を受けていないにも関わらず、政府の行為によって、日本から戦争をしかけていることになります。日本が攻撃されていないのですから、攻撃する場所は日本の領土外、つまり外国であります。

 

この結果、外国で敵国兵士が殺傷され施設が破壊される。これは「自衛」という名目の海外での「武力行使」そのものであり、交戦権の行使に他なりません。憲法9条1項に反し、交戦権を否定する2項に違反します。例え自衛の名目であってもその武力行使によって深刻な被害を受け、また、加害者となるのは国民自身なのであります。ですから国民自らの意志で、こうした海外での他国民の殺傷や施設の破壊をする権限を政府に与えるかどうか、これを自らが決定しなければなりません。それが、憲法制定権が国民にあるということであり、主権が国民に存するという意味であります。

 

国民からすれば、自らを危険に晒す覚悟があるのか、自らが殺人の加害者の側になる覚悟があるのかと、これを自らが決定する究極の自己決定権の行使であります。それが、憲法制定権を持つ国民が、憲法改正の手続きをとり、集団的自衛権を行使出来る国になる選択をすることに他なりません。

 

本法案は、その選択の機会を、まさに国民から奪うものであり、国民主権に反し、許されないと考えます。これだけ重要なことを憲法改正手続きも取らずに憲法で縛られて戦争する権限など与えらえていない政府の側で、一方的に憲法の解釈を変更することで可能にしてしまうことなど、出来ようもなく、明確に立憲主義に反すると言わざるを得ません。

 

政府が憲法上許されるとする根拠が昭和47年の意見書「砂川判決」であります。共に根拠となるという論証が成されていません。47年の意見書の当時から「限定された自衛権は認められていた」というようなことは、元内閣法制局長官であった宮崎礼壹参考人が言うように、白、黒と言いくるめるようなものではありえません。当時の吉國長官答弁及び防衛庁政府見解によって完全に否定されているものであります。

 

更に、時代が変わったのだから、自衛の措置として限定的な集団的自衛権までは認められるようになったのだ、と解釈することは、時代の変化による必要性が生じたからこれまで認めたくなかった武力行使を、必要性だけで認めてしまうことを意味しています。

 

法的安定性が根底から覆されるものであります。しかも昨年7月1日、閣議決定では、47年見解の中核部分であるところの、「しかしながら、だからといって平和主義を基本原則とする憲法が、自衛の措置を無制限に認めているとは解されないのであって」という重要な記述をあえて脱落させています。

 

必要があれば自衛の措置として何でもいいというこの解釈を許してしまうことは、武力の行使と交戦権を否定した憲法9条を無きものとし、政府に戦争の惨禍を起こさせないようにするために憲法で軍事力を統制した立憲主義に真っ向から反しています。この47年意見書は合憲性の根拠には成り得ないものであります。

 

砂川事件最高判決は、集団的自衛権行使の憲法上の根拠には成り得ません。今これまで指摘されてきたように、砂川判決は、集団的自衛権の可否を扱った判例ではありません。憲法判例が一定の規範的な意味を持つためには、公開の法廷で、当事者の弁論によって争われた争点について判断することが必要であります。

 

持ち込まれた争点に対して、法律専門家同士が議論を尽くし、裁判所が理性と知性によって、法原理を探った結果だからこそその判決の内容を国民は信用し、一定の規範としての意味を持つに至るのです。全く当事者争点にもせず、専門家によって議論もされていない点について判例としての意味を持たせてしまうと、部外者による恣意的な解釈を認めることになり、裁判所の法原理機関としての正当性を失わせ、裁判所の権威をも失墜させてしまうでしょう。

 

このように、「当時争点になっていなかったのであるから、集団的自衛権を認める規範としての意味がない」という指摘に対して、それでも合憲の根拠というのであるならば、

 

一.争点になっていなくても規範としての意味がある。

二.当時争点となっていた。

 

このいずれかを論証しなければなりません。しかし、どちらの論証も政府側から成されていません。よって、法的にこの砂川事件最高裁判決を、集団的自衛権の根拠に使うことは許されません。最後に申し添えたいことがあります。

 

そもそも国会議員には、憲法尊重擁護義務がございます。どんな安全保障政策であっても、憲法の枠の中で実現すること、これが国会議員の使命であり責任であります。昨年7月1日の閣議決定が違憲であることがそもそもの問題の原因なのですから、そこにしっかりと立ち戻って憲法上の議論をしなければなりません。

 

良識の府である参議院の存在意義は衆議院に対する抑止であり、数に力の暴走に歯止めをかけることにあります。参議院の存在意義を示すことが今こそ必要と考えます。国民はここでの議論、そしてこの法案に賛成する議員の事をしっかりと記憶します。

 

18歳で選挙権を与えられた若者を含めて、選挙権という国民の権利を最大限に行使するでありましょう。昨年7月1日以来、国民は立憲主義、平和主義、民主主義、国民主権の意味をより深く理解し、具体的に行動するようになりました。これはこの国の立憲主義、民主主義、そして国民主権の実現にとって大きな財産になるものと考えます。国民はこれからも「理不尽」に抗い続けるでしょう。

 

ーーーーーーーーーーここまでーーーーーーーーーーーーーーー

 

以上です。国民一人一人が本当に国為に考えるべきなんですが、「よく分からない」というのが国民の大半、若い世代の声なのではと思います。

 

すごく分かりやすくこれまでの問題やこれからどうするべきなのかを指摘してくださっているこの動画、一見の価値ありです。

 

終わり。

 

 

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