サーモンのおすし

日々の雑記や、ブログを運営していく中で気づいた事を記載していきます。

私の人生を歩くのに、あなたの許可は必要ではない。ただ、私の許可によって、あなたの人生がより豊かになる可能性もある。

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昨日の夜から、少し天気が崩れ、気持ちの良い風が吹いています。

 

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もうすぐ梅雨なのか、と思うと同時に、もうすぐ夏が来るんだな、と日本の四季をただただ感じています。

 

最近、周りに「だって、あの人が◯◯だから」とか「あの人が◯◯って言うから」と言って自分の本当の気持ちを塞いでしまっている人が居て、思うことがあったので書いておこうと思います。

 

 

1.あなたが思う程、周りの人は他人を気にしてはいない

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小学校や中学校の頃、私は、他人の評価を気にしながら生きてきました。だから、成績が落ちるのが怖かったし、部活でも負けるのが怖かった。だから、勝負出来るフィールドを選んで歩んで来た人生でもありました。

 

今思うとそれは無駄ではなかったと思いますが、その当時本当にやりたかったことをやっていたら今はどうなっていたのだろうと思います。とは言っても、部活動に関しては本当にやりたいことをやって来た気がしますが。

他人の評価を気にしながら生きるということは、”他人の人生を生きる”ということです。これに気付いたとき、本当に悲しくなりました。

 

周りの人は、私が思う程、私がどんな点数を取ろうと、どんな成績を出そうと良かったんです。

 

 

先日も、電車の中で感じた事なのですが、いくらオシャレをした所で、電車に乗ったり、街を歩いていると、誰もそんな事を見てはいない。(もちろん、ファッションに興味の在る方は見るかと思いますが) みんな、スマホでそれぞれの世界に入り込んでいました。

 

私も実際、ハイヒールや厚底のサンダルを履いている女性を見ると、

「オシャレだな・・・」

よりも先行して

「歩き方汚いな・・・」

「これ10年後外反母趾だな・・・」

「脚もっと鍛えたら格好良くキマるのに・・・」

 

そんな事がまずよぎります。

自分が思っていることを他人が思ってくれるとは限らないんだなと、その時強く感じました。

2.他人の評価を気にする人生は、(悪い意味で)八方美人となる。

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他人の評価を気にする人は、接する人に合わせて自分のキャラを変えて行きます。年齢や地位、単純な好き嫌いなど、自分の価値観によって変えて行く。それもまた大切なことなのかもしれませんが、私は疲れました。

 

なぜ疲れるかというと、”変化した自分の事を好いてくれる人が集まる”からだったんです。

 

例えばこれは、普段はカジュアルな装いをする人が、少しオシャレしようと思ってジャケットスタイルに変えたら、「あら、オシャレね」と言われ、そこから出会う人はそれがスタンダードになってしまうという現象に似ています。

 

もちろん、そのままそのキャラクターを続けていればそれが本当の自分になっていくのかもしれないですが、三つ子の魂百までという諺があるように、なかなかキャラクターを変えるのは難しい。だから、装い続けるのは疲れるのです。

 

すると、あの人の前ではこういうキャラ、この人の前ではこういうキャラ、という様に、カメレオンにでもなったかのように変化し続けなければいけなくなります。これが私が疲れていた理由なんですね。

 

本当はありのままで良いのに。なんで飾ろうとしていたのだろう。

 

そんなことをしているうちに、「私はこうでなければいけない」なんていう強迫観念すら湧いてきます。

 

時々無性に独りでどこか遠くへ!と思っていたのはこれが原因だったと思います。

 

3.装う人には、装う人が集まる

これ、面白い話しなんですけど、私がそういう事に疲れて八方美人を辞めると、付き合う人達が変化しました。つまり、今まで近くに居た人達は遠くに行ってしまい、遠くに居た人達が近くに来た、ということなんですけど。

 

そして、装う事を止めると、他人が装っているのが分かるんですね。

「あ、これ本音じゃないな」とか

「あ、これ営業トークだな」とか笑

経験することで肌で感じるようになるというか。

 

多分経験って、何かを肌で感じて覚えることなんでしょうね。よくこの世の現象を波動で説明したモノがありますが、それに置き換えるなら、その物事の波動を身体が記憶するのかなと。

 

だから勉強も、肌で感じる様にしていけば、もっともっと子どもも成長しそうな気がします。ただただ頭に詰め込むのではなくて。

 

話しが逸れました。

 

装うことによって、表面的なおつきあいが増え、更に疲労感が増して来た私は、一切の”飾る(飾り立てるという表現の方が適切かも)”ということを止めました。

 

4.等身大の自分に少しずつ成れた時、やっと自分の人生を歩み出した気がした。

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今まで周りの人の評価を気にして生きてきた自分にとって、誰に評価されないとしても何かをやるとか、誰がやっていなくても一人でもやるという事は、全くと言っていい程してきませんでした。

 

これが、装いを止めた時から少しずつ、

「本当に私がしたい表現とは?」

と考えるようになり、自分の直観に従う様になりました。

すると不思議な事に、その方が周りの人への影響力が強いという事に気付いたのです。

 

誰に評価されなくても良いと思って(ただただ純粋に面白そうと思って)始めた事に仲間がどんどん増えたり、直観に従う事で物事のタイミングが本当にちょうど良くなって来たり。そこでようやく、

自分の人生、歩み出したな

と感じる様になりました。

 

 

5.私の人生を歩くのに、あなたの許可は必要ではない。ただ、私の許可によって、あなたの人生がより豊かになる可能性もある。

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で、表題の所になるんですけど。

 

この、自分の人生を歩き出した瞬間に一番感じた事は、誰にも邪魔されてないなって思ったんです。他でもない、それに対して許可を出したのは、GOサインを出したのは私自身でした。

 

だからこそ誰かに認められなくても構わないし、雑な言い方で言えば、「そんなの関係ない」んですね。

 

今までは、他人の目線が気になっていましたし(まだ気になりますよ笑)、何かをするにも他人に意見を求めていました。つまり、他人からの許可を求めていたんですね。それはつまり「他人軸の人生」だったんですよ。

 

これはすごく重大なことだとおもっていて、他人の価値観によって自分の意見が潰された場合、本当にしたかったことが出来ない恐れがあります。

 

これでどれだけ色々な事を無駄にしてきたんだろうと、曖昧な過去の記憶をたまに振り返ってみたりしていますが、その時間すらも今は無駄なんだと気付きました。笑

 

ということは逆にね、私が、他の人のやりたい、言いたい事をを許可することにより、その人の人生が豊かになる可能性があるということです。

 

私の価値観を押し付けるような「それは止めた方が・・・」「無理でしょ絶対」という発言は、徳に反しない限りしない方が良いな、そう感じたのでした。

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現代には、「不安」が溢れ返っています。その不安は、他人の価値観や目線によって形成されているものも多く存在するかもしれません。

払拭するために、まず何かひとつでも、自分の人生を歩んでいるなと感じるような事をひとつ、見つけてみるのも良いかもしれないです。

 

人生は、なんとかなるんですから。

 

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