本当に今を生きる時、それは誰の為でもない、自分自身の為になる。
台風も過ぎ去り、本格的に暑くなって来ました。
夏に近づくと、小さい頃、ブルーハワイ味のかき氷をめちゃくちゃ食べて、舌を真っ青にしながら
おかああさああああああん
とお化けのモノマネをしたのを思い出します。
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子どもは、今を生きています。
私は、教育学部の大学を出ているので、教育実習に行ったんですが、そこでは「教わるのは子どもではなく大人の私たちの方だ」と痛感しました。
子どもは、今この瞬間を大切に(本人達はそう思っていないと思いますが)生きています。
さっきまで泣いていたと思ったらもう笑っているし
さっきまで笑っていたと思ったら怒っているし
一旦集中し出すと何が起きても気にしなくなるし
そこに”誰かの為”というようなエネルギーは微塵も感じない。
「誰かの為」って、すごく良い言葉に聞こえるけど、私は不完全な人間なので、そんな事してたら他の人に合わせる人生になりますよって思います。
私も最初は、誰かの為に、役立ちたいという思いから今の仕事を始めた気がします。
もちろん、結果的に役に立てて「ありがとう」と言われるのは、めちゃくちゃ嬉しいですよ。
けど、誰かの為にという事は、一人一人に、私のキャラクターを合わせていかなくてはならないんです。
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そうしたとしても、うまく行かない時があったり
お客さんの身体の状態をもらってしまう事だってありました。
ある日、疲れました。
疲れました、と単純に書くけど、本当に初めてじゃないかってくらい、何もしたくないくらい、疲れました。
で
一日何もしない日を作って、自然の中に身を置いて、ぼーっとしていたら
そこには
草や木や花がありました
どれも違う形、色、ニオイをしていました
別にそれらは
他のモノに合わせて生きているわけではなかったけど
その清々しさが、すごく気持ちよかったんです。
だから私も、止めようって思ったんです。
その瞬間から、色んなコトが楽になりました。
合わせる必要も無いし
見栄を張る必要も無い
等身大の私で行こうって。
そしたら次は、今を生きるってどういうことだろうって思い始めたんですけど
ぼーっとしている中でひらめきました。
多分、全ての◯◯ながら〜を止めれば良いんだと、今も感じています。
食べるときは食べることそのものになる
歩くときは歩く事そのものになる
寝るときは寝る事そのものになる
過去を振り返りながら〜
携帯をいじりながら〜
今を生きていないということは、過去か未来に生きているということになります。
過去か未来に生きることによって、そこから発生する感情の影響を受けて、身体が歪んだりもします(臨床上の経験です)
その時間軸を切る。
今自分のしている動作そのものになる。
それだけの話しだなって思いました。
食べ物からしたら、やっぱり面と向かって食べてくれた方が嬉しいのではないかと思います。
それは人と人とのコミュニケーションでも一緒で、例えば接客の場でも
「本日担当します高橋と申します、よろしくお願いします。」
と礼儀良く言われたとしても、次の瞬間に携帯見ながら話されたら驚きますよね。
まあこれは極端な例ですが、スマホいじりながら食事というのは現代ではよくある光景かと思います。これは、食べる事そのものになれていないですね。
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おかあああああさああああああああん
ってやっていたあの頃の私は確かに
何も考えずにただただ今日という区切りで暮らしていました。
大人になればなるほど、色々な事が重なり、それが難しくなりますが
今日という一日の区切りで死んでも良いよう
身体を動かすのみです。