サーモンのおすし

日々の雑記や、ブログを運営していく中で気づいた事を記載していきます。

心の習慣が変えられないのなら、身体から変えてみるというのはどうだろう。

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休日の日中をのんびりした後に、少しカフェで休憩しています。

 
 
アイスコーヒーが美味しい季節になってきました。
個人的に、たまに飲むウインナーコーヒーがたまらなく美味しいと思います。
 
 
 
身体のコントロールをトレーニングしてるうちに、また閃いたことがあったので、忘れないうちに、メモ的な感じにはなりますが、書いておきたいと思います。
 
 

1.ネガティヴな感情は、身体が記憶する。

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怒り、悲しみ、恐れなど、ネガティヴな感情として自分が物事を捉えた場合、それらは身体が記憶してしまいます。
 
記憶する器は【内臓】です。
 
東洋医学の世界では
肺ー悲しみ
肝ー怒り
腎ー不安
心ー焦り
など、人が感じることを内臓が受け取るとされています。
 
それらが神経や経絡といった流れを通じ、身体の表面へと表れた時、私たちは痛みとして様々なメッセージを受け取ります。
 
 
 
 

2.だからと言って、ポジティブ思考になれ、というのは何か違うのだと思う。

 
何でもかんでもポジティブに、という人が居ますが、人間、というか動物は基本的にネガティヴな生き物です。
 
例えばシマウマがポジティブだったら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

あー、ライオンか、大丈夫っしょ。

 
 
って突っ込んで即死します。
 
 
という極端な例の様に、本能的に"生きる"ということがプログラムされている私たちは、危険を回避する能力があります。
 
 
だから基本的に、物事はネガティヴに考えています。
 
 
ネガティヴ=悪いこと
 
というよりは、必要なことだと私は思うんですね。それを無理やりポジティブという何かこう、絶対的なヒーローみたいなものによって排除するのは、違和感を感じます。
 
ただ、どうしても怒ってしまうとか、どうしても不安に感じてしまうということがあるので、ここをどうするか、というのが問題になって来るかと思います。
 
 
 

3.怒りは自分自身の"当たり前"の外側の出来事であり、それは自分自身の過去の統計に基づいている。

 
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日本の電車は、とても精確に時刻を守ります。

 
だが、それ故に、1分でも遅れるとクレームを出す人が居るといいます。
 
 
それは
 
 

過去に時間通りに来たのだから今回も当たり前に来るだろう。

 
という自分自身の(身勝手な)統計から来る(身勝手な)予想であり、ここから外れると"なんでやねん!(怒)"となりますね。
 
 
人間関係も同じで、
 
あの人はこうしてくれたからこの人もそうだろう。
 
社会の常識から見てそれが当たり前だ。
 
という、これも勝手な自分自身の統計から来る先入観です。
 
 
先入観があると、当たり前ですが、ありのままを見ることは不可能になります。ここに落とし穴があります。
 
要は、その先入観から外れた時、人は怒りを感じ、その怒りを内臓へと貯蓄してしまう、という流れが産まれてしまいます。
 
産み出しているのは自分自身の自我なのですが、大体『あいつが悪い』とか『環境、社会が悪い』と責任回避します。
 
 
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本来物事は、諸行無常という言葉があるように、一瞬たりとも同じ状態というのはあり得ません。

 
 
それは、自然が教えてくれます。
 
自然は、人間の都合で出来ていません。
 
都市は、人間の都合で出来ています。
 
 
その時その時の状態と向き合い、それに対応していくのが、本来の自然体ということになるのかなと最近は感じています。
 
これは、人と人との関係でも言えることです。
 
セッションの時たまにお客様に言うのですが
「一秒たりとも同じ身体は無い」んです。
人の細胞は絶え間なく代謝をしていますから、一秒たりとも同じ自分や他人は存在しません。
そうすると、全てが一期一会です。
その時に、先入観などというものは存在しないはずです。
全てが、初めての出会いなのですから。
 
 

4.心の状態が変えられないのなら、身体の状態を変えると良い

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それで、タイトルの所になるんですけど。
 
心の習慣や状態を変えるというのはすごく難しいと思います。
 
 
なぜならそこは、見えるようで見えない世界だから。
しかし、大切にするべき世界でもあります。
 
であるなら、見える部分である身体を、しかも、その使い方を感じ、変えることを通して心のことを学べば良いんだ、と私は考えています。
 
 

身体をきちんと使うということは、"他の人や物事に意識を奪われていては出来ない"事なんです。

 

簡単なようで、僕自身もその難しさを日々感じています。

 

 

ただ、純粋に身体を使うことができた時の開放(解放)感は、喜び以外の何者でもありません。

 

そこから、生きてるという実感すら感じます。

 

まずは"立つ"という動作そのものから変えてみては、いかがでしょうか。

 

骨が下から上までしっかり積み重なるように。

 

次は、全ての動作を「ゆっくり」にしてみる。

その動作を、感じてみる。

物を取るひとつにしても、どう動くのか、感じてみる。

 

そんな風に、自分自身の肉体の認識がはじまると、それに付随する感情の認識であったり、価値観の認識というものが出来てくるはずです。(一朝一夕ではありませんが)

 

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なにかこう、中途半端になってしまいましたが、

 

身体があっての自分、その身体を感じ、フルに使ってみる。そこから色々見えてくるものがあるのではないかと、感じました。

 

今はIT技術の恩恵を受け暮らしていますが、その反動で身体を動かすという機会は減って来ているかと思います。

 

自分の身体も、心魂も、たった一つ。ひとつだからこそ、その全てを使い切る為にも、まずは身体のコントロール、そんな切り口も、面白いのでは。

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我が道を歩む。

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