自分自身を心の拠り所にすると、途端に人生は楽しくなる。
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会社に、行きたくない。
あの人に嫌われてしまった、もう嫌だ。
なんで上手くいかないんだろう?
社会は無情だ。
上の言葉は、私のお客様や友達が言っている言葉です。
まあ、かなりの人が口にしたり耳にしたりしているのではないだろうかと思います。
自分の中で”こうだ”と思った事が(思っていた事が)思い通りにならず、そのギャップに人は悩み、苦しみます。
ですが、それは間違いなく、自我です。ワガママです。
先日、後輩たちとご飯に行った時に
そのうちの一人が
『最近、ものすごく故郷に帰りたいんです。』
と話していました。
私は、自分でそんな事も思っていなかったのに
『それは、近くに心の拠り所が無いからじゃない?』
と話していました。
そこから何故か、"自分が何故そう思ったのかを整理するように" その理由を話し始めました。
《人は、どうしようもない不安に苛まれた時や、得体の知れない恐怖を感じた時には、心の拠り所を求める。それが近くにない場合は、心の拠り所の絶対的な存在である、産まれた場所を求めるんだよ》
今思っても、何故こんなことを言ったのかわかりません。笑
ただ、時間を置いた今、改めて考えてみて感じることがありましたので、備忘録的にまとめます。
1.何事も自分事として捉えることが、人生を味わう第一歩であること。
世の中には不安を煽るような記事などがたくさんあり、「不安が現実化しないように」一生懸命になって成功しよう・健康でいようなどとたくさんの人が意気込みます。ですがそれはあくまでも「他人の軸」でしかありません。
「老後これくらいの貯蓄が無いとダメ」
「血圧がこれ以上高いとヤバイ」
これはあくまでも客観的から見たものですね。もちろん貯蓄がゼロだとか、血圧が180くらいですという過剰なのは抜きにしても、こういった「他人の評価基準」を自分の人生の基準にしてしまうことに、問題は潜んでいるかと思うのです。
例えば人間関係でも、「他人の評価基準」を人生の軸にしてしまうと、"その人が嬉しいと思ってるかどうか"で自分の人生が決まってしまいます。
友達が喜んだ、だから私も嬉しい。
上司がイラついている。だから私もイラついている。
他人から見られている自分がどうかで、自分の評価が決まります。
ただ、その他人というのも、十人十色です。
これ、すっごく、疲れます。
仕事を始めた頃の私は、間違いなくこれでした。
あの人が喜ぶことはこういうことだからこういう感じに話をもっていこう。
あの人はこういうことをすると嬉しいって言ってくれるなあ。
仕事が重なった日の夜はドッと疲れが。
ある時、(良い意味で)他人に合わせるの面倒くさーーーい!って振り切れた時から、楽になりました。
合わせなくても良いんだ。
私には私の生き方や価値観がある。
今までのベクトルとは逆のベクトルになりましたが、それが良かったようで、良い意味でありのままになれた気がします。
自分に正直になると、自分の価値観が分かります。
私は、何を好み、何を嫌うか。
私は、身体を動かす、という事でも、長く走る事は嫌いです。泳ぐ事も嫌いです。でも、それが私です。
私は、何に興味を持ち、何に全く興味を示さないか。
私は、人の身体の不思議に興味があります。お菓子作りには全く興味がありません。
そして、何が私となるのか。
自分の軸が決まる事で、相手や周りの物事に動じなくなります。
だからこそ、自分自身に正直になる。
2.自分自身を楽しませ、成長させることが生きる醍醐味であること。
私は、今までの人生、他人からの評価で生きてきました。
他の人に褒められたり、すごいねって言われるのが嬉しくてそれが目的になっていました。
だから、他の人に負けるのが本当に嫌でした。
そして褒められなくなると、その行動自体にも意味を感じず、それをすることを辞めていきます(陸上競技なんてその典型例でした)。
嫌だった、というより、怖かった。という表現の方がマッチすると思います。
どういう自分がどうなるかというと、"負けないフィールド"で勝負をして来たんです。
学校のテストも、余裕余裕言いながら、家で結構やってましたしね笑
陸上競技だってそうだと思います。
でもこれって、本当に、"いつかガタが来る"んです。
ガタが来た途端に自暴自棄になり、何もかもが崩れて行くのを感じます。
私は間違いなくそうでしたし、年を重ねれば重ねる程その経験が多くなってきました。
勝負という世界には、上がこれでもかという程いるからです。
そしてそういう時こそ、「組織のせい」をはじめとする、自分以外の環境へと責任転嫁をするわけです。
この時が人生で一番落ち込んでいたと思いますが、
その時が無ければ今は決してなかったので、事実は事実として受け容れています。もう今となっては動かせない過去ですから。
で、先述の、面倒くさーーーい!って振り切れた時から、
〈本当に自分の魂が喜ぶこと〉をやろう
って決めたんです。
だから、少しでも自分の中に違和感や、自我を感じた場合には、すぐ自分に問います。
本当にそれで良いの?
って。
全てにおいて半信半疑になったという表現になるのかも知れません。
その問いがあると無いとでは、積み重ねが違ってくるかなと今は感じています。その問いのお陰で確信を得られたり、逆に方向修正出来たりするわけなので。昨日の自分より成長する為には、必要な質問だと思います。
自分主体になると、その時から毎日がガラッと変わりますし、何よりも"他人と比べてどうか"ではなく、先ほど述べたばかりですが、"昨日の自分と比べてどうか"っていう視点に"全てが"切り替わります。
楽しいですよ、これ。
あ、昨日はこれ出来なかったけど今日出来た!
あ、昨日はこんな感覚無かったけど、分かった!
とか。
すると、一瞬一瞬が学びということに気付くんですね。
そこから感じられることは
自分の人生を生きてるという実感であり
楽しい、嬉しい、幸せ
そんな感情だと思います。
外のモノ、つまり、他人、新興宗教、物、故郷などに依存することなく、自分に依存(帰属)する。
人は、帰る場所があると安心します。
だから、自分自身に帰る。
目をつぶれば、夢も現実も変わらなく、まぶたの中に存在しています。
それは、誰がなんといおうと、あなたが思い描く、そしてあなたにしか思い描けない、ひとつの物語。
今まで紡いで来た、変えられないものは、喜んで受け容れる。
生まれた国・土地・先祖・両親・性別・身長・体重・過去全ての事
これから紡いで行く、白紙のものは、自分主体でこれから創って行く努力を。
それを〈身体から〉という一つのきっかけがあっても良いのかな。
そう考えた夜でした。
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